人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

ソ連の満州侵攻・・・あの夏、僕は母と妹を殺した。

 今回のお話は大変ショッキングな内容なんですが、戦後生まれの私自身も含め知っておかなければならない戦時の事実をお話します。


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あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶

 
 

 

 



 京都市に暮らす村上敏明さん(82)は、1934(昭和9)年、いまの京都府亀岡市生まれ。満州からの引揚者です。



「妹と母を捨てて、僕が生き残っているようなものなんですよ」

ぽつり、ぽつりと言葉を探しながら。村上さんは自らの記憶を、ゆっくりと紐解き始めた。


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70年間、語ることのできなかった戦争の記憶。旧満州からの引き揚げ者たちの「戦後」という記事を参考にお話しします。



妹と母を殺めた罪悪感から今までずっと逃れることができなかった僕は、いまから71年前の夏、11歳の時二人に毒薬を飲ませたのです。



村上敏明さん(82)の戦争は、8月15日より後に始まりました。「妹と母を捨てて、僕が生き残っているようなものなんですよ」と村上さんは言います。



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村上さんは1938年、4歳のころ、両親と弟の4人で満州に移住した。父親が、「給料が2倍になる」として選んだ新天地だった。



満蒙開拓団やビジネスマンたち……。父親と同じように、「新国家」での成功を夢見て多くの日本人が旅立っていった。数年後、不幸な未来が待っていることも知らずに・・・。



・・・流れ始めた不穏な空気



本土での空襲が始まり、敗戦色が濃くなっていた1944年ごろになっても、満州の市民に戦争の影は及んでいなかった。

それでも、1945年になると不穏な空気が流れ始めるようになる。



5月には、大人の男性が「根こそぎ徴兵」されていなくなった。妹の芙美子が生まれた直後だったが、父親も、やはり動員された。家の前には線路があって徴兵されたばかりの兵士たちが貨物列車に載せられて、ぎゅうぎゅう詰めで北に向かっていくのをよく見かけた。



時を同じくして、「日本は負けるんじゃないか」という噂が聞こえるようになってきた。実際それが事実となったのです。8月の上旬、「広島が新型爆弾でやられた」という話を友人伝いに聞いたのです。



1945年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を破り、満州への侵攻を始める。村上さんにとっての「戦争」が始まろうとしていた。



・・・そして街は、戦場になった



8月15日、日本は降伏した。村上さんが敗戦を意識するようになったのは、それより少し後。ソ連兵が町に侵攻して来てからだ。



村上さんのように、日本の「外地」とされていた満州朝鮮半島、台湾などの地域に取り残された人たちの国内への「引き揚げ」は困難を極めた。




満州では、ソ連の侵攻や中国で始まった国共内戦による混乱により、引き揚げ事業がなかなか進まなかった。取り残された100万人以上の引き揚げが本格化したのは、終戦から1年ほど経った8月のことだ。



その間、戦闘に巻き込まれて命を落としたり、暴徒や兵士に暴行や略奪を受けたりした人は少なくない。さらには食糧難や病が帰る術をもたない人たちを襲い、20万人以上が命を失った。



村上さんも、そうした死と隣り合わせの状況から逃れることはできなかった。



・・・妹は目を見開いて、僕をにらんだ




こんな記憶がある。家のなかで、数人の大人たちと弟2人に囲まれて、母親が抱きかかえた妹に、スプーンを使って瓶に入った液体を飲ませた情景だ。「 妹は、スプーンですくった透明の液体をなめると、閉じていた目をくっと見開いて、私をにらんだんです。そしてそのまま、息絶えた」・・・飲ませたのは、毒だった。




「引き揚げが決まったものの、長い道中、幼子は連れて帰ることはできないということになったのでしょう。母親も少しは周囲に抵抗したかもしれない。でも、結局は断ることができなかったのでしょう。」




「父親が徴兵され母親が物売りに出るなか、妹のお守りを任されていた僕はいつも背中に乗せていた記憶があります。だから余計に妹が愛おしい。悔しい。」「毒を飲ませた時の表情しか、覚えていないんですよ。そしてそれが、忘れられない。」と村上さんは言います。小さな亡骸は、家のすぐ近くの川沿いに土葬をした。




・・・母は口から泡を吹き出し、息絶えた



1946年7月7日、列車で住んでいた四平を発った。そこからの記憶は途切れ途切れだ。ただ、娘を失った母親はみるみる衰弱し、立つことすらままならなくなっていました。



無蓋列車にシートを被せた車両のなかで、じっと横になった母親は、『芙美子、芙美子』とうなされていた。



約400キロ、数日間を列車に揺られ、引き揚げをする日本人が集められた遼寧省へたどり着くと、母親は病院に収容された。弟とともに看病をしていたが、会話もできないほど弱り切っていた。



1946年8月6日。医者から普段とは違う粉薬を手渡された。村上さんがそれを口に流し込むと、母親はすぐに口から白い泡を吹き出して息を引き取った。・・・



引き揚げの間に弱り切った9歳の弟は、母と妹の後を追うように、5ヶ月後に病死。シベリアに抑留されていた父親が帰国したのは、1948年のことだった。




・・・語ることのできなかった記憶



妹と母親を、殺めてしまったという記憶。罪の意識に苛まれていた村上さんは、「妻や自分の子どもたちにもこの経験を話すことができなかった。」という。長年、抗鬱剤睡眠薬の処方を受けており戦争体験によるPTSDにかかっているらしい。



「戦争を語れる人たちが少なくなってきた今、自らが語らなければならない。」という村上さん



「戦争は悲しみしか生み出さない。ひとの命を奪い、生き残ったものには後悔の念しか残しません。こんなことを再び繰り返すことのないように。それが2人(母と妹)の遺言だと思って話すようにしているんです。きっと弔いにもなる。」と村上さんは言う。







・・・戦後生まれの皆さん、この戦争体験を聞いてどうお感じになりますか?