人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

日清チキンラーメンの歴史を語る。創業者は誰かご存知ですか?

 
トヨタも日清の精神を共有している
チキンラーメンの創業者は安藤百福だった 。

  

日本精神とチキンラーメン
 
 
 

 

  

1 チキンラーメンの生みの親

 インスタントラーメンを発明し、世界の食文化を変えた安藤百福さん。今では災害時の保存食、さらには宇宙食にまで採用されています。

 

 

安藤百福 (日清食品:創設者)
 

 

 
 
 
野口宇宙飛行士
 
 


 安藤さんがチキンラーメンを世に送り出してから半世紀以上が経ち、その総需要は世界で1000億食を超えるまでになりました。96歳でその生涯を閉じるまで、"クリエイティヴな発想" と "最後まであきらめない執念" を持ち続けていた安藤の志は、現在も日清食品グループに受け継がれているのです。

 

 

 

2 公の精神で国民を救う

 安藤百福さんは台湾出身の実業家です。1910年(明治43年)、1910年(明治43年)、日本統治下の台湾・嘉義県で生まれました。両親が早くに亡くなったため、嘉義県の南隣である台南市で呉服屋を営む祖父母のもとで育ちます。この台南には、「意麺」という、卵を練り込んだ麺を軽く揚げたちぢれ麺が名物となっていますが、台湾ではこれが百福のインスタントラーメン誕生のヒントになったともいわれています。

 

台南市といえば、八田與一が建設した烏山頭ダムが有名です。烏山頭ダム1921年に着工し1930年に完成しましたが、もちろん安藤百福もその完成を現地で耳にしていたことでしょう。

 

 

 日本統治下で台南は急速に近代化が進みました。1900年には高雄と台南の間に鉄道が敷かれ、1907年には台北ともつながりました。また、1916年には台北から高雄までの縦貫道路が建設されたことで、台南も交通の要所として発展しました。

 

 

  独立心と事業意欲旺盛で、22歳(1932年)のときに、父親の遺産を元手に繊維会社「東洋メリヤス」を立ち上げ、日本内地から製品を仕入れて販売する仕事を始めましたが、これが大成功を収めます。そして翌年には大阪に「日東商会」を設立し、問屋業務を始めます。

 

 

 百福は、立命館大学の専門学部経済科(夜間学校)に通うと同時に、蚕糸事業、精密機械やエンジン部品製造などにも事業を拡大させていきます。朝昼は事業、夜は勉学という二足のわらじを続けていたわけです。

 

 

それまでうまく行っていた事業ですが、1945年3月からの大阪大空襲により、百福の大阪事務所や工場はすべて灰燼に帰してしまい、終戦を迎えます。

 

 

  戦後、百福は土地買収で事業再建を目指しますが、街に飢餓状態の人々が溢れ、餓死者も多く出たことに「食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と食の重要性を痛感し、食の世界に転向することを決心します。 

 

 

 百福は「国民栄養科学研究所」を設立し、病人用の栄養食品開発にも没頭するなど、戦後の復興に力を注いだのです。

 

 

  食糧難に喘いでいた日本を救いたいとの一心で、独学でインスタントラーメンの開発を進めます。部下もいない、たった1人からの挑戦でした。しかも百福は麺については素人ですから、本当に何もないところからの出発だったのです。

 

 

 試行錯誤を重ね、ついに油熱による乾燥法にたどり着きます。前述したように、台湾では「意麺」がインスタント・ラーメンのヒントになったと言われていますが、百福の自伝によれば、妻の揚げた天ぷらで製法を思いついたと述べています。

 

 

 こうして1年の試行錯誤を経て誕生したのが、「チキンラーメン」です。

 

 

  鶏ガラから取ったスープは栄養もあり、当時の食糧事情から、厚生省がチキンラーメンを妊産婦の健康食品として推奨したことから大ヒットします。  安藤はチキンラーメンの商標や特許をとり、会社や商品の信用を守ることに努めました。

 

 

しかし、1964年には一社独占を止め、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡しました。その理由として、「企業は野中の一本杉であるより、森として発展する方がいいと思ってる。」という言葉で語っています。

ここまで引用:安藤百福 - Wikipedia                    

 

これは公の精神と言ってもよいでしょう。

 

 

 

3 トヨタも見習った企業精神

  話はちょっと反れますが、2017年末、トヨタが、安藤百福さんと同じ考えで日本の自動車業界が世界に遅れをとらないようEV技術開発において7社連合で技術の共有をすると発表しました。つまりトヨタの技術をEV後発の企業にあげちゃいますよ。と言う意味です。
 
 
 
トヨタEV技術開発、7社連合に       日本経済新聞 2017/12/31
 スズキ・スバル・日野・ダイハツが参加スズキやSUBARU(スバル)、日野自動車ダイハツ工業トヨタ自動車が主導する電気自動車(EV)の基盤技術の開発会社に合流することを決めた。
 
 新たに参加する4社は2018年1月から技術者を派遣する。最新のEV技術を共有し、小型車、中型車、商用車など各社が強みをもつ車種に必要なEVの技術開発を加速する。商品化で先行する欧米勢や中国勢に対抗する。
 
 
  私は戦後の昭和27年生まれですが、これまでの間、日本の一企業が業界全体(と言うより日本)を心配してこういう行動を取ったことは記憶にありません。やっぱり日本人の公の精神は素晴らしい。
 
 
 

4 人物評価

 安藤は小さい頃、祖父母のもとで台湾で育ちましたが、当時は日本統治の時代で学校の教育に、「修身」という授業があり利己より利他の精神公の精神 を重んじるよう教育されました。戦前は内地外地も同じでした。

 

【修身】とは
旧制(1945年以前)の小・中学校の教科目の一つ。
道徳教育
自分の行いを正しくするようにつとめること。

 

 

 日本では戦後、この道徳教育は長い間中断していました。さらに国を愛さない教育が長く続いています。これが日本人の民度を下げた大きな要因だったと思いますが、皆さんはどう思われますか? 


歴史家/黄文雄

 安藤百福が幸いだったのは、台湾の日本統治時代に生まれ、人格形成の時期を過ごしたからでしょう。だから日本人同様に、不屈の精神と創造への意欲、そして共存共栄の気持ちを持ち続けることができたのだと思います。

 

 安藤百福は2007年1月に97歳で死去しましたが、アメリカのニューヨーク・タイムズも社説でその死を悼み、偉業を讃えました。