人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

親日のスリランカ (仏教徒が70%)・・②・・日本独立の恩人 スリランカ 初代大統領ジャヤワルダナを忘れてはいけない!

 
日本独立の恩人 スリランカ 初代大統領



ジャヤワルダナ氏
 

閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日、更に政界引退後も日本を訪れています。また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流に尽力しました。

ジャヤワルダナ氏の生い立ち


1906年9月17日 11人兄弟の長男としてセイロンの最高裁判所判事の息子として生まれ、ロイヤル・カレッジ・コロンボで学んだ。クリケットの選手としてロイヤル-トミアンに出場したこともある。

ジャヤワルダナはキリスト教から仏教に改宗し、コロンボ法科大学で優秀な成績を修めて法律家となった。しかし法曹界には長くは留まらず、

1938年 セイロン国家機構 (CNC) の活動家となった。

1947年 初代蔵相として入閣した。

1951年 国連に蔵相として参加し、同年、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席した。 その際の会議演説でセイロンとしての見解を求められたジャヤワルダナは、「日本の掲げた理想に、独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」、と述べ、また、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、セイロン(現スリランカ)は日本に対する賠償請求を放棄する旨の演説を行って各国の賛同を得、日本が国際社会に復帰できる道筋を作ってくれたのでした。


講和会議での演説の模様



吉田茂以下、日本の随行員らは、ジャヤワルダナ氏の演説に感謝し涙した。
 


1983年 スリランカの首都をコロンボから古都コッテへ遷都するに当たり、コッテがかつてジャヤワルダナと呼ばれていたことに加え、彼自身の姓をも絡めてスリジャヤワルダナプラコッテ(輝ける勝利をもたらす町・コッテ)と改称の上、遷都させた。

1977年 無投票で首相に選ばれ精力的に活動した。


1978年 初代大統領になった。

1989年 昭和天皇大喪の礼に本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇されました。

1991年 日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学しています。

1996年11月1日 90歳で死去に際し献眼、角膜提供。「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られました。彼の遺言通り左目は長野県の女性に移植されたそうです。



サンフランシスコ講和会議での演説の様子


日本の国際社会復帰を話し合う、講和会議であったが、ソ連の執拗な反対工作に会い、日本の分断、主権の制限、高額な賠償金がソ連案にのせられ、会議の前途は混沌としていた。そんな中、強い決意を胸に秘め、J.R.ジャヤワルダナ氏は話し始めました。

各国が自国の利害を考え、駆け引きを繰り返す中、全く、と言っていいぐらい利害のない「日本」に対して、むしろ日本軍の空襲(実際はイギリスが占拠していた軍港と物資保管施設)をうけ、被害を受けた国の代表でありながら、日本を擁護する演説を続けました。

敗戦国に対して、利害を超えて「尊敬」と「共感」を表明し、日本の独立を強く支持するJ.R.ジャヤワルダナ氏の言葉に、会場はうち静まりました。


アジア諸国に流れる共通の思想、仏教を引用し日本への賠償請求放棄を呼びかけました。 これにより、多くのアジア諸国が日本との関わりと、恩恵を想起し、また、日本人は同じ肌の色をしたアジア民族であり、

日本が戦ったのはアジア人を搾取した白人国家だったのだと再認識させることでアジアの一体感を呼び覚ましたのです。欧米諸国の代表にも、その博愛と寛容の精神は静かな感動を与えました。

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説が終わると、万雷の拍手が沸き起こった。 彼のこの演説が、講和会議の流れを変え、日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのです。

日本はソ連ポーランドチェコスロバキアを除く48ヶ国と講和を結び、国際社会復帰を果たしたのでした。



アジアで日本を擁護してくれた人がもう一人います
 
 

それはインドのパール判事です。東京裁判の時、理不尽な裁判そのものを批判して日本を擁護してくれました。
パール判事についてはまた別の機会にお話したいと思います。