人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

⑤ ジョン万次郎に学ぶ・・・もっと評価してあげよう




ジョン万次郎若かりし日の写真
1851年ジョン万次郎が国内に持ち込んだ
のがはじめとされるネクタイ姿



 1851年、万次郎がアメリカから帰国した時の所持品目録に白鹿襟飾三個と有り、まぎれもなくネクタイを着用していたことを伺わます。「白鹿襟飾3個」、この襟飾とはネクタイのことで、この当時は「襟飾」「ネッキタイ」「頚結」などと色々な名前で呼ばれていました。



日本に帰国した前後を年表で表しますと、

1850年  【23歳】

帰国資金を稼ぐためサンフランシスコ(カリフォルニア州)の金鉱で3カ月程働く。
金鉱で得た資金で上陸用ボートを購入し、ホノルル(ハワイ)へ。
 
ついに帰国へ】
漂流仲間と再会し、帰国の計画を伝えます。現地で結婚しハワイに残った寅右衛門を除く、伝蔵、五右衛門、万次郎の3人で帰国する運びとなった。恩師デーモン牧師の協力を得て帰国準備を整えると仲間と共に中国行きの商船に乗る。23歳ホノルルを出発。

1851年  【24歳】
薩摩藩領の琉球に上陸。

那覇→翁長→島津藩鹿児島→長崎奉行所(白州での尋問は18回に及んだ)
 鹿児島に護送された万次郎たちを待ち受けていたのは賓客としての待遇だった。
 
1853年  ペリー率いる黒船来航(浦賀) 開国を要求。


 


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 日本にネクタイがもたらされたのは幕末に洋服が入った時でした。片山淳之助氏の著した「西洋衣食住」(1867年)の中に”ネッキタイ”として紹介されています。ネクタイが日本に紹介された文献としてはこれが最初のようです。ネクタイが紹介されたのは明治の事ですので、調べると結構詳しい事が記載されています。


 日本人として初めてネクタイを販売した人は、東京の日本橋区橘町で洋品雑貨商を営んでいた田中力蔵氏といわれています。明治15年頃より輸入ネクタイの販売を始めましたがあまり売れずその期間はごく短かったといわれています。 


 その後2~3年遅れて、帽子商を営んでいた小山梅吉氏が、中古ネクタイを見本に帯を裁断してネクタイを作ったと言われています。日本人として初めてネクタイを製造販売した人ということになります。時は明治17年(1884)、彼が24歳の時だそうです。


小山梅吉
 

 そして、明治20年頃より唐物屋(とうもつや)とか舶来屋と称しインポートの物を商っていた店に奉公していた南文蔵と言う少年が、ネクタイに関心を持ち、ネクタイ製造に踏み出しました。明治27年、17歳の時だそうです。しかし、売上金額はたいした事はなく、やっと生活できる程度だったと言われています。


 明治22年(1889)明治憲法が制定され、この頃から男性の洋服が流行し始めました。日清戦争後は、更に流行は広がっていきました。この流行に拍車がかかった明治28,9年頃東京浅草瓦町でネクタイ問屋を始めたのが、寺田商店の寺田銑三郎氏です。寺田氏こそ、ネクタイを事業としてスタートさせた日本で最初の人です。そして、その功績により、日本中にネクタイが紹介され、急速に普及しました。



 ネクタイをモデルに日本の勃興期である明治を少しだけ垣間見てみましたが、とてもエネルギュイッシュで沸き立つような熱さを感じます。その頃生きた人たちはどんな気分で生活していたのでしょうか。これからの日本がどうなっていくか期待と不安の中で心躍らせていた気分はどのような物だったのでしょうか?ちょっとタイムスリップしてみたくなりますね。




参考文献
   日本ネクタイ史 日本衣料新聞社 1956   
   服装大百科事典 服装文化協会 編 
参考:スズキトミーHP(ネクタイ専門店)

資料館 公式サイト
銅像足摺岬に近い中ノ浜にあります。
資料館:土佐清水市養老303