人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

③ ジョン万次郎に学ぶ・・・もっと評価してあげよう

 

 
ジョン万次郎=中浜万次郎

 150余年前、日本人として初めてアメリカに渡り、測量や航海術などを学んだ後、鎖国時代の日本に帰国し、日本の夜明けや国際交流に多大な功績を遺したジョン万次郎。


  民主主義や外国での生活・考え方など、坂本龍馬の開眼も万次郎の体験によることは明らかで、ほかにも板垣退助中江兆民岩崎弥太郎などに多大な影響を与え、後に中浜万次郎と名乗った彼は、 1827年、現在の土佐清水市中浜に漁師の子として生まれました。




資料館公式サイト
 
銅像足摺岬に近い中ノ浜にあります。
資料館:土佐清水市養老303

ご挨拶
名誉館長:ビビる大木
高知県観光特使





薩摩藩領の琉球に上陸

1851年  【24歳】
薩摩藩領の琉球に上陸。

那覇→翁長→島津藩鹿児島→長崎奉行所(白州での尋問は18回に及んだ)


【殿様じきじきの取り調べ】

 鹿児島に護送された万次郎たちを待ち受けていたのは賓客としての待遇。
なぜ、こんな待遇だったかというと、薩摩藩主・島津斉彬は、西洋の文化や技術の導入に熱心なお殿様だったからです。万次郎たちから海外の事情や知識を得たい斉彬は、直々に万次郎たちを取り調べまでしたのです。

万次郎は藩主を前にしても臆することなく堂々と答えました。


1852年  【25歳】
土佐への帰国。
吉田東洋から70日間の取り調べを受ける。後に絵師・河田小龍宅に寄宿。
11年10カ月ぶりに母と再会
高知城下の教授館に出仕。




河田小龍と万次郎】
 万次郎は土佐でも取り調べを受けていました。しかし、長い外国生活で日本語をだいぶ忘れてしまっていたため、万次郎の供述は英語混じり。役人たちは困惑してしいます。
 
そこで尋問にたちあうことになったのが、蘭学の素養のある絵師・河田小龍でした。後に万次郎は小龍宅に寄宿することになる。
 
漂巽紀略を著した河田小龍
 
 小龍は万次郎が語る異国の話を本にまとめました。『漂巽紀略』と題され、それは4冊に及びました。万次郎の漂流から海外生活を経て帰国するまでが、挿絵入りで描かれています。完成すると、まず藩主・山内容堂に献上され、その後は江戸の大名が競って求めるほどの評判に。

 この『漂巽紀略』坂本龍馬ら幕末の志士たちも目にしたと言われ、鎖国下にあった日本人の目を海外へ向けさせるきっかけとなったのでした。


  坂本竜馬と親交があった土佐藩の絵師河田小竜(1824~98年)がまとめたジョン万次郎の漂流記「漂巽紀略」の原本の下書きが、高知県坂本竜馬記念館(高知市)に寄託され、27日報道陣に公開された。


昭和四十八年八月、高知市大津で原本が発見された
漂巽紀畧に描かれている中浜万次郎
(雄飛の海より)出版: 高知新聞社発行1991
 

 記念館の三浦夏樹主任学芸員は「『漂巽紀略』は(坂本)竜馬が世界に目を向けるきっかけとなった本。この下書きを竜馬が見た可能性もあり、大変貴重な資料だ」と話している。


1853年  【26歳】
 幕府に招聘(しょうへい)され江戸へ。直参旗本に。この際中浜の姓を授かり、中浜万次郎と名乗るようになった。

藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎岩崎弥太郎等が直接指導を受ける。


ペリーが浦賀に1目の来航



1854年  【27歳】
 幕府通弁(通訳)のかたわら、造船。航海、測量、捕鯨の指導のため、国中を東奔西走。

 幕府剣道指南・団野源之進の二女・鉄と結婚
万次郎の妻おてつ
 
この年
ペリーが神奈川沖に再び来航




1855年  【28歳】

アメリカ航海学書『新実戦航海書』の翻訳を命じられる。

翌年、翻訳が完成。







1857年  【30歳】

 軍艦教授所の教授になる。
 
勝海舟との交流】
 万次郎が教鞭を執ることになった軍艦教授所。後にその責任者となるのが勝海舟でした。勝はある時、万次郎を招きアメリカ(=メリケン)事情を尋ねました。万次郎は幕府関係者の多くから愚にもつかない質問を受けていたので、この時も受け流していました。
しかし勝が熱心に問うと、ではひとつお聞かせしたいことがあると言い、こう語りました。

アメリでは高い身分に就いた者は、ますます深く考え、振る舞いは高尚になります。ここが日本と大きく異なるところです」 

 幕府首脳の無能さを嘆いていた勝は、これを聞いて大いに万次郎と意気投合したといいます。



1859年  【32歳】

 英会話書『英米対話捷径』を編集




④ ジョン万次郎につづく