人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

① ジョン万次郎に学ぶ・・・もっと評価してあげよう

 

つづき

 確かに戦後、高度成長を成しとげ、GDPも世界2位まで上り詰めましたが、バブルも弾け長い時間が経った今、日本人は何かを考え初めたような気がします。
 
 増してや北朝鮮による日本の安全安心が脅かされている現在若い世代も、お花畑では済まされないと気づき始めたように思えます。
 
 また自虐史観を持っていた多くの国民がインターネットの普及により正しい歴史が分かる時代になってきました。科学技術の進歩はまんざら悪い事ばかりではないようです。そういう意味でも今の日本は、正しい目線で歴史を振り返ることが出来るようになってきたのです。


 
 

 

 
 
さて本日は、 ジョン万次郎についてお話したいと思います。
 
一般的な情報はそこらへんにたくさんありますので、少々角度変えて見てみたいと思います。


青年時代の万次郎
 
ジョン万次郎=中浜万次郎
 
ジョン万次郎は、江戸時代末期から明治にかけての人物。日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した人。(高知県 土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男として生まれました。



さらにプライベートな事ですが、ジョン万次郎はアメリカから帰った時点では、
 
① 母親は生きていました。父親は小さい時亡くなっています。
 
② 帰国後、(おてつ)さんと言う人と結婚しました。

万次郎の妻おてつ
 
③ その後子供に恵まれ、中浜東一郎と言う息子ができました。医学博士まで養育しています。安政4年(1857年)- 昭和12年(1937年)






 さて今日の本題は、

万次郎を熱心に研究したアメリカの女性歴史家についてです。
 
その人の名はエミリイ・V・ワリナーです。
著者のエミリーはハワイの新聞社の編集長で、
長年ジョン万次郎の研究に取り組んできました。

新・ジョン万次郎伝 エミリーV・ワリナー著
田中至訳 出版共同社 昭和41年刊
 
 
 なぜエミリイが万次郎のことを熱心に研究したのかというと、女史がたまたまホノルル在住中、万次郎ら五人の漂流日本人漁夫がホノルルに来着した事に興味を感じたからです。約四十余年間、万次郎研究に没頭してきた人です。



 万次郎が従来の日本史に於てあまり高く評価されていないのは、彼が武士階級の出身でなく、当時の封建社会に於ては身分低きものとされていた漁師の出身だったからだといっています。



 しかし民主主義の国となった現代の日本では、そういう偏見にとらわれないで、百幾十年前に、最初の日本人として渡米し、日本とアメリカの間の最初の懸け橋となった蔭の立役者ジョン万次郎の事を、もっともっと多くの日本人が知るべきであり、それに役立たせたい為、あらゆる資料をまとめ新しい著書を日本で出版したいというのが女史の熱望だったのです。
 
 なぜでしょうか。それは万次郎がアメリカ合衆国の東部地方に来た最初の日本人であり、またその頃は、日本との交易が特に強く望まれていた折りでもあったので、この少年は、ひとびとの関心を呼んだのです。


やがてエミリイはホワイト・ハウスに招かれ、ルーズベルト氏と会見したとのことです。
 
 

 
さらに、女史は元総理大臣・吉田茂とも対談しています。
(昭和40年6月30日)
 
 吉田茂氏も土佐の出身ですから、大いに万次郎に関心がありました。そこで一日、ワリナー女史を大磯の私邸に招いて、時のたつのも忘れ万次郎ばなしを語り合ったそうです。
 
 
 
吉田茂1878年明治11年)生れ、元総理大臣・高知県宿毛出身。自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として生まれる。麻生太郎は外曾孫となる。
 
 
 
その時の吉田茂氏の感想を載せておきます。
 
エミリー女史と元総理:吉田茂 (昭和40年6月30日)
 
 今回、エミリイ・V・ワリナー女史が、ジョン万次郎に関する多年の研究を纏めて日本に於て出版するために来日され、日米協会の紹介に依って私も女史に面接し、親しくその談話を拝聴したが、私は女史の万次郎研究に対する熱意には大いに感銘した。
 
 女史は、たまたまホノルル在住中、万次郎ら五人の漂流日本人漁夫がホノルルに来着した事に興味を感じ、爾来四十余年間、万次郎研究に没頭してきた人である。
 
 この研究の為に、女史は、多額の私財を投じてハワイ、米国本土は勿論、何回となく日本をも訪れ、また故人の郷里にも旅行し、万次郎に関するあらゆる資料を渉猟し、米国に於て立派な文献を著作しておられるが、女史のこの研究が、万次郎の事績に興味を抱いていたフランクリン・D・ルーズベルト大統領の耳に入り、ホワイト・ハウスに招かれた事もあると聞いている。
 
 女史に依れば、万次郎が従来の日本正史に於てあまり高く評価されていないのは、彼が武士階級の出身でなく、当時の封建社会に於ては身分低きものとされていた漁師の出身だったからだという。
 
 しかし民主主義の国となった現代の日本では、そういう偏見にとらわれないで、百二十年前に、最初の日本人として渡米し、日本とアメリカの間の最初の懸け橋となった蔭の立役者ジョン・万次郎の事を、もっともっと多くの日本人が知るべきだという。
 
 それに役立たせたい為に、その後に発見された資料をも加えた新しい著書を日本で出版したいというのが女史の熱望なのである。
 
 米国と日本は、過去に於て遺憾ながら不幸な関係に立ち到った事もあるが、両国の関係が今日のように良い事は未だかつてない処である。
 
 しかしながら、両国の国民が彼我両国の事情をよく理解し合っているかといえば、それは残念ながら、必ずしもまだ完全とはいえないと思われる。
 
 それだけに日本国民としては、更によく米国を理解する必要があると思う。
 
 自分の見る処では、米国の外交政策は、ペリーを日本に派遣した当時の精神が今もなお伝統しているように思う。
 
 米国がペリーを派遣した目的は、今日、既に史実に明らかな処であるが、ペリー来朝より十二年も前に、漂流の日本人少年万次郎が米国に在って、多くの市民の愛情と善意に依って教育され、それが後年の黒船騒ぎの時、幕府当局をして事の処理に過ちなからしむるのに大いに役立ったという事は、史実として面白いばかりでなく、日本国民は、この際、史眼を新たにして、国際間の事は、いかに相互理解と相互信頼とが大切であるかという事を再認識すべきである。
 
 
 これが、私のこの本を推奨し、且つワリナー女史の研究と熱意に敬意を表する所以である。
 
 
 
 
 
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なぜ万次郎の知名度は低かったのか?


 エミリイ・V・ワリナー女史に依れば、万次郎が従来の日本史に於てあまり高く評価されていないのは、彼が武士階級の出身でなく、当時の封建社会に於ては身分低きものとされていた漁師の出身だったからだといっています。






 しかし戦後、民主主義の国となった現代の日本では、そういう偏見にとらわれないで、百数十年前に、最初の日本人として渡米し、日本とアメリカの間の最初の懸け橋となった蔭の立役者ジョン・万次郎の事を、もっともっと多くの日本人が知るべきだと女史は言っています。



②につづく