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インドネシアの独立 2・・・PETA創設の秘話:柳川中尉

インドネシア国旗




 
 


柳川中尉・PETA創設者
peta=祖国防衛義勇軍
映画「ムルデカ17805」の柳川中尉
本人写真は探しても見つかりませんでした。
 
 
 
 
映画「ムルデカ17805
 
 
 
 
インドネシアは昭和24年に独立しました。4年間の対オランダとの独立戦争は苦難に満ちたものでした。この独立戦争を戦い抜いたのは、大東亜戦争中に日本軍が創設したインドネシア人によるPETA:祖国防衛義勇軍でした。





指導する教官
 
 
 
 
 
 
 
 
このPETAの基礎となったのは、タンゲラン青年道場でした。この青年道場は、日本の中野学校出身の情報士官らによって、設立された機関だそうです。そしてこの隊長が柳川宗成中尉だったのです。
 
 
 
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第16軍参謀部の柳川宗茂(やながわもとしげ・1914年生~1986年没)中尉。陸軍中野学校2期生で当時30歳前後でした。
 
 
柳川中尉は戦後、昭和39年(1964)、家族と共にジャカルタに移住永住されています。・・・昭和61年(1986年没)
 
 
インドネシアの2代目大統領、スハルトが、柳川宗成をインドネシアに呼び寄せ、住む家も準備し、生涯面倒を看たそうです。
 
 
2代目大統領 スハルト




スハルトの指示を受けた軍医が、毎朝、健康を按じ、脈を取りに来ていたそうです。


インドネシアから年金も支給されていたそうです。


スハルト大統領から至れり尽くせりされていたのです。


当の柳川宗成は、そこまでしなくともと、笑いながらも


スハルトからインドネシア名を名乗って欲しいとの要望を


「オレは日本人だ、親からもらった名を変えない」と、


かたくなに拒んだそうです。


この事実、みなさんはご存知でしたか。私は全然、知りませんでした。



スハルト大統領から感謝しつづけれらた柳川中尉最後は「英雄墓地」に入ることを生前に懇願されましたが、「オレなんぞ」ということで、かたくなに拒み一般墓地に埋葬されました。

 
 
ということで、豪胆で私利私欲がない人物で、真にインドネシア独立を願った人物のようでありました。
 
 
「カプテン柳川留魂録」の抜粋より。柳川宗成中尉の行動録という意味です。 
 
 
 
 
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スカルノ時代は、20年続きました。
スハルト時代は、30年続きました。
 
合わせて50年、その国のトップが日本を感謝し続けたということです。
 
皆さん!
我々日本人は、そういう風に思われ続けたことに、
そろそろ、素直になってもいいのではないでしょうか。
 
戦後、日本人は自虐精神を持ちすぎたのではないでしょうか。
 
 
もう自虐史観は捨てましょう。
 
 
 

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