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インドネシアの独立 1・・・最後の残留日本兵:小野盛さん

インドネシア国旗




 
 
 
 
 
元残留日本兵が残したもの
 
 
 
 
この写真の方、どなたかお分かりですか?
インドネシア最後の残留日本兵・小野盛さんです。



インドネシア最後の残留日本兵・小野盛さん
2014年8月25日94歳で死去
 
 
 





小野さんの記録




独立戦争終結後、インドネシアでは多くの元日本兵独立戦争への功績を讃えて叙勲されています。
 
 
 
インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たしました。
 
 
元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれていますが、死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できませんでした。
 
 
 
2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)さんが94歳で死去しました。小野さんは、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされています。
 
 
小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬されました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、日本の敗戦後(1945年)、イギリスなどの支援を受けて旧宗主国のオランダが再植民地化を試みます。オランダはそれまで350年間、インドネシアを植民地にしていました。




スカルノ大統領              
話はちょっと反れますが、皆さん右の方ご存知ですか?
右の方は、お馴染みのデヴィ夫人です。
デヴィ夫人は、大統領の4人の夫人のうち第3夫人でした。
 
 
 
インドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどしました。その一人が小野盛さんだったのです。




残った兵士は1000人以上と言われています。




PETA(郷土防衛義勇軍)に指導しているシーン




PETA記念館 資料より
PETA=郷土防衛義勇軍昭和18年12月、第一次33個大団の編成を完了した。1個大団は3個中団、1個中団は3個小団、1個小団は5個分団からなり、大団長以下兵士まで全員ジャワ人である。ボゴールに幹部の訓練所が開設され、訓練には日本の軍人があたり、厳しい日本式の教育を終えた幹部が一般募集の兵士を訓練した。第一次についで、翌19年には第二次、第三次11大団、バリ島大団も追加され、終戦時には69個大団、人員も3万8千人にもなり、その数は駐屯日本軍の倍近くになっていた。日本の敗戦後は解散となったが、舞い戻ったオランダに対する独立戦争を指導し、独立と新生インドネシア共和国軍創設の中心となったのが元PETAのメンバー であった。
 
 
インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、2001年公開の映画『ムルデカ17805』に描かれています。
この映画を見ると事のあらすじが理解できると思います。
 
 
 
 
 
 
 
ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事です。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのでした。
 
 
 
 

過去記事
ジャカルタで大人気 JKT48・・・そこにはインドネシア語ペラペラの
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インドネシアの独立 2・・・PETA創設の秘話:柳川中尉

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