人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

バングラディシュの誕生

バングラデシュ国旗

 バングラデシュの国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、「農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ」という日本を目標とした所から初代首相が決めたそうです。何かすごく親日的ですね。大東亜戦争に対する歴史認識の影響もあるのでしょうか?



日本から見た位置

 
まず初めに、大東亜・太平洋戦争終結から後に独立した国々を示しておきます。
 
 
 
 




インドからパキスタン独立
 
1945年、大東亜・太平洋戦争終結


1947年、イギリスが植民地インドから去ります。その際インドは宗教を基にインド(ヒンドゥー教)とパキスタン(イスラム教)に分けられます。 これにより、パキスタンは西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)の、インドを挟んだ飛び地となってしまいました。


1948年「世界人権宣言」が国際連合で総会決議される。




 
西パキスタンではウルドゥー語、東パキスタンではベンガル語が話されていました。 


首都は西パキスタンにあり、パキスタン政府はウルドゥー語を唯一の公用語にしようとしたため、 東パキスタンの反発(ベンガル語運動)が起きました。



1952年2月21日、バングラデシュの首都ダッカで、ベンガル語公用語とすることを求める活動家や学生とパキスタン軍が武力衝突し、 学生たちが犠牲となりました。



1966年、東パキスタンシェイク・ムジブル・ラーマン率いる政党「アワミ連盟」が、 東パキスタン地域の自治権(国防・外交・通貨以外の完全自治)を主張しました。 


脅威を感じた西パキスタン中央政府は、ムジブル・ラーマンを「インドと結託した反国家分子」として逮捕、 それをきっかけに東パキスタンストライキが活発になりました。
 




1971年、ムジブル・ラーマンの激により盛り上がる独立運動と、それを鎮圧する西パキスタン中央政府・軍の間で独立戦争が始まります。 



インドは東パキスタン独立を支持しました。 そして4月10日、ムジブル・ラーマンはバングラデシュ人民共和国」として独立を宣言し、 初代首相、後に大統領となりました。



初代首相:ムジブル・ラーマン



その直後、1971年5月には西パキスタンバングラデシュを制圧、 また東パキスタン内の反独立派(西パキスタン支持派)による ベンガル人の大量虐殺が行われ、大勢がインドに難民となります。 それを機にインドが介入します。


インドは東パキスタン独立運動に介入します。そして、パキスタン内で西パキスタン軍と衝突します。


西パキスタン空軍はインドの領空を飛び、西パキスタン海軍は南から侵入攻撃します。これが1971年12月の第3次印パ戦争す。 



しだいにインドが優勢になり、1971年12月16日に西パキスタンバングラデシュ独立を認めることになり、 東パキスタンバングラデシュとして独立します。



現在の情勢図