人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

無縁社会 ②

 



無縁社会」の明るい走り方・・・本当の喜びとは何か?

 現代日本は「無縁社会」であるという。とりわけ東京などの都会では、地縁、血縁、社縁(職場縁)といった人間どうしの絆が希薄化し、多くの人が平生誰とも関わり合わずに生きている。そのため、誰にも看取られずに孤独な死を迎える人も少なくない。それは実に悲しいことではないでしょうか。


 最近の都会人は子供や配偶者に恵まれたとしても、子が独立し配偶者に先立たれれば、話し相手もないままたった1人の晩年を過ごすことになりかねない。独居者が自室で亡くなり、そのまま何日も気づかれなかったという話はいまや珍しいものではなくなりました。



そもそも「無縁」とは何だろう。

 また仏教の話で申し訳ありません。仏教において重んじられるのが「縁」であります。人間関係の縁だけではなく、物や物事の生じる原因や条件を指して縁というらしいです。

 人が救われるには縁が大切であり、それゆえ「縁なき衆生は度し難し」との言葉もあります。つまり、仏縁のない者は仏でも救うことはできないという意味です。私たち日本人は、このような仏教の教えのもとに、縁を重視する人生観、世界観を育んできました。当然、「無縁」は好ましいことではないとされています。



有縁社会=村社会が理想郷なのか?

単純に「有縁社会」へ回帰すればいいのだろうか。それ以前に、私たちは本当に無縁社会を忌み嫌っているのかということも検証しなければならない。


 まずいえることは、伝統的な有縁社会=村社会も理想郷ではないということだ。村社会の基本原理は、家どうしが冠婚葬祭などで互いに助け合う互酬性だ。互酬性が確立されれば、その場で決済することがないため人間関係は長期に及ぶ。一方、その関係性から逃れることができないという意味では、個人を拘束する。際限のない互酬性の罠から逃れるには、いったん村の外へ出なければならない。


 そのため、高度成長期には多くの若者が自由=無縁化を求めて、東京など大都会の職場や学校を目指したのだ。


 だが、自由である半面、帰属先のない不安定な都会生活には、必ずしも幸福な暮らしが待ち受けているわけではなかった。当時流行した演歌やフォークソングには、そうした都会生活における挫折や望郷の念を歌ったものが多かった。


 いまの流行歌は、演歌やフォークソングではなく新種の流行歌が幅を利かせている。金の卵世代や団塊の世代にはこれは理解できない。まいった。(@_@)目が回るっ隊っ!


 なぜ演歌やフォークソングが流行しなくなったのか?無縁化を求めて都会へやってきた人々の多くがそのまま都会に定着し、都会への不適応や郷愁の気持ちを、かつてのようには感じなくなっているからではないか。


 しかし、彼らの心の底には、いまもなお「都会で失敗した者を慰める歌」を求める気持ちが残っている。『無縁社会』が受け入れられたのは、そうした心情をうまくすくい上げた新種の流行歌が支えているからではないだろうか。




むしろ有縁化の方に向かっている現象が見られるようになった

 現在、職を求めて上京した人たちの多くは家庭をつくり「都会の人」になっている。全国的に少子化が進んだこともあり、次の世代は都会を離れようとしないし、地方から東京へ出てくる流れもかつてほどではなくなった。


 職を求めて上京してきた人の「次の世代は都会を離れようとしない」と述べた。周囲を見ても、都会に定住する傾向は年ごとに強まっているというのが実感だ。同じ東京の中でも、慣れ親しんだ地域に住み続けたいという人が増えている。


 その結果、村社会のように強固な形ではないにしろ、都会でも地域の縁が深まりつつある。現に首都圏の住宅地では、住民が主催する祭りが年を追うごとに盛んになっている。

 例えば、
 ☆ 日比谷公園丸の内音頭大盆踊り大会


 ☆ すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り
 ☆ みなとみらい大盆踊り​
 ☆ 寅さんまつり
 ☆ 六本木ヒルズ盆踊り
 ☆ 東京丸の内盆踊り
 ☆ 増上寺 盆踊り
 ☆ 巣鴨納涼盆踊り大会

 それから、なぜか首都圏で流行る阿波踊り
諸説ありますが、町おこしのための夏のイベントを探していて、広い会場や豪華な設備を必要としない阿波踊りに白羽の矢が立ったのだとか。その代表が60年以上前に始まった「東京高円寺阿波踊り」です。その後、東京周辺で阿波踊りが広がっていき、高円寺のような大きな会場から地元商店街主催の小規模なものまで、あちこちで阿波踊りが開催されるようになりました。



☆  高円寺&南越谷阿波踊り 


☆  神楽坂阿波踊り
☆  糀谷阿波おどり
☆  三鷹阿波おどり 


「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿保なら踊らにゃ損々!」 見るだけでなく「踊らにゃ損々」 都会は伝統的な村社会と比べたら「無縁社会」には違いない。だが、そこからさらに無縁化が進んでいるのではなく、実態としてはむしろ有縁化のほうへ向かっているのでないでしょうか?