人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

創氏改名は「強制ではない」・・・韓国の歴史

 
道=行政区画の意味
 
 

 創氏改名、これは朝鮮伝統の金、朴、李などの「姓」(儒教文化的男系一族の象徴)は戸籍に残したまま、日本風の山田、田中といった家族的な「氏」を新たに創設する制度でした。
 
朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、女性は結婚後もその姓には加われない。
 
古代→近代、一族→家族化を図り「内鮮一体」の同化も進めましょう…というのが目的だったのです。
 
 本貫と呼ばれる出身地と併せて「姓」を一族の誇りにしてきた名家には、いらぬ“おせっかい”だったかもしれないが、日本人と同等になれる、
 
差別がなくなる…と歓迎した朝鮮人も多かったのは事実です。一方、日本には朝鮮人の犯罪抑止を理由に反対する意見もありました。
 
 重要なのは強制でなかったことです。日本風の氏を創設したのは約8割。期間中に届け出なければ、金や朴など従来の「姓」をそのまま「氏」として使うことができました。
 
陸軍中将になった洪思翊や世界的なダンサー崔承喜も、前述の検事、閔も日本風創氏をしていません。
 
もとより「改名」は任意(申請制)だったのです。
 
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朝鮮での近代的司法制度の誕生
 
 朝鮮で近代的司法制度を整えたのは日本でした。高等法院(京城=現・韓国ソウル)-覆審法院(京城平壌大邱)-地方法院の三審制、それぞれに対応する検事局が設けられました。
 
 起訴や捜査、法務行政を握る検事が強大な権力を持っていたのは日本統治下の朝鮮でも変わりはありません。
 
 検事の中で朝鮮人として出世頭のポジションにあったのが、大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳●=1905~92年)である。
 
九州帝国大学を出て昭和9年の高等試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格。
 
30代で朝鮮人としては異例の平壌覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当、ランクは高等官四等)に出世したのです。
大和田元一氏(家族提供)
 19年1月の司法部職員録を見れば、京城覆審法院検事局の朝鮮人検事として大和田より上位(高等官三等)に閔丙晟の名前がある。
 
ただ、明治23年生まれの閔はこのとき50代。京城専修学校出身の“たたき上げ”であり、「キャリア組」の大和田が朝鮮人検事のリーダー格だったと言って差し支えないでしょう。
大和田の名が記載された昭和19年の司法部職員録
 大和田の前半生は日本の朝鮮統治と重なっている。出身は、朝鮮半島南東部の慶尚北道・金泉の名家(両班(ヤンバン))、父親は日韓併合前の大韓帝国時代、郡守(首長)を務めていた。
 
生後5年で日韓併合(明治43年)となり、朝鮮の教育環境は日本によって急ピッチで整備が進みました。具体的なデータを挙げてみます。
 

 

開かれた高等教育 
当時、朝鮮人初等教育は、寺子屋にたとえられる書堂(ソダン)が主でした。
 
日韓併合直後の明治44年の統計によれば、朝鮮人が通う普通学校(小学校)が173校(児童数2万121人)に対し書堂は1万6540校(同14万1604人)。

 

 
それが昭和8年には普通学校2100校(同56万1920人)▽書堂8630校(同14万2668人)と児童数で逆転しています。
 
 法律や医学の高等教育機関である専門学校は明治44年に5校(学生数409人)だったが、昭和8年には15校(同3785人)へと急増。
 
1校もなかった大学は京城帝大が創設(大正13年予科)されました。
 
 大和田は、地元の普通学校→京城の高等普通学校(中学)→官立の京城法学専門学校と進み、京城帝大はまだ開設されていなかったため(学部は大正15年設置)、
 
朝鮮から最も近い帝国大学である九州帝大法文学部法律学科へ進学したのです。
 
 高等試験司法科に合格した大和田は、検事の道を選び、光州地方法院検事局・長興支部検事(昭和14年)→新義州地方法院同(15年)→平壌覆審法院同(18年)と検事として順調に出世の階段を上ります。
 
朝鮮人の司法職員数も、明治44年・364人→昭和8年・1232人へと増加しました。
 
 朝鮮人に高等教育の機会が開かれ、法を司(つかさど)る検事や判事(裁判官)のポストに就くことができたことは注目すべきことです。
 
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親日派として糾弾された大和田元一

 戦後の韓国では、大和田の輝かしい経歴もマイナスとなってしまいました。

 日本統治時代の“協力者”をリストアップし、韓国で2009年に出版された『親日人名辞典』の大和田の項では、「創氏改名」(昭和15年実施)の記述に大きなスペースを割き、

大和田が当時の新聞や雑誌に発表した見解を紹介した上で、同制度を積極的に支持したと書かれています。

 それがなぜ悪いのでしょう? 先にも書きましたが朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、

女性は結婚後もその姓には加われないという朝鮮人の人権を保障するために考えられた案なのに残念なことです。強制でもなかったのにですよ。

 確かに《栄光的な大日本帝国兵站(へいたん)基地としての2300万の(朝鮮)半島民衆》などと刺激的な記述はあるものの、古い物は保存し、より高い段階で生かすという意味を含ませ、

それに代わって創氏制度が新たに制定されると法律家らしく大和田は明快に説明しており、どこが問題なのか分かりません。

こうした韓国の反日一辺倒の感情は我々日本人にとってはがゆい限りです。

 こうして大和田は、韓国誕生後の1948年11月、大田地方検察庁検事正に就任するも翌年には退職を余儀なくされてしまいました。まだ44歳でした。

 大和田のような優秀な法律家こそ、戦後の新国家(韓国)建設に必要な人材ではなかったか?

参考:産経ニュースより2018.1.2