日本は、世界に先駆けて人種差別撤廃を訴えた・・・パリ講和会議
日本だった
1920年、第一次世界大戦の反省を活かし、世界平和の理念を強固にするために国際連盟が設立されました。それに先駆けて1919年フランスで行われたパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃」を盛り込んだ画期的な提案をしました。このような提案をしたのは世界初のことで、日本が誇るべき提案です。
ところが当時世界各地に植民地を持っていたイギリスが猛反対、オーストラリアや議長であるアメリカのウィルソン大統領も最終的には首を縦に振らず、日本の提案は却下されました。日本の人種差別撤廃条項案が却下されたことは、すぐに世界中に知れ渡り、東南アジア、エジプト、インドなどでは次々と独立運動が起こりました。アメリカでは黒人達による暴動が起こりました。
そもそも日本が世界の舞台で人種差別撤廃を訴えたのはなぜでしょう。当時脱亜入欧を合言葉にアメリカに移住する日本人が増えていましたが、アメリカ人はあまり快く思ってはいませんでした。その感情はやがて「日本人排斥運動」という形になり、カリフォルニアなどでは日本人は法律で土地所有を禁止されたりしました。
日露戦争と第一次世界大戦で戦勝国になった日本をしても人種の壁は崩すことのできないものだったのです。それがパリ講和会議の提案に繋がっていったのです。
そして、西欧特に米英とって、植民地支配というものが当たり前の価値観であって「人種平等などありえない」というのが当時の常識でした。
提案を行った牧野大使 |
大戦が始まった初頭、日本では東アジアの要人を招いて「大東亜会議」を開きました。
昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。歴史的出来事です。アジアの自主独立を旗印とし、各国代表演説が行われ、共同宣言を満場一致で採択したのです。
ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース
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この大東亜会議は外相の重光葵の提案によるものです。日本が自存自衛のために大東亜戦争を戦っても日本一国の思いと受け取られてしまいます。アジア各国が集まり、世界に宣言を出すことによりアジアの思いとして鮮明にしたわけです。
このように、日本は終始、「人種的差別撤廃」「植民地解放」を貫いていたのです。
「 虐殺や戦争が起こらないように、世界の平和を実現するため、世界各国が協力して人権を守る努力をしなければならない。 」というのが根底にあります。
このように、日本のやって来たことは間違いではなかった事がお分かりでしょう。
日本人よ! もっと自信と誇りを持ちましょう。自虐史観はもうよしましょう。