人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

ブルネイ親日・・・ 輝かしい関係をつくった日本人がいた

ブルネイ:お金持ちの国

 

三重県ほどの小っちゃなブルネイ

ブルネイの歴史」
 1888年:イギリスの植民地となる
 1941年:太平洋戦争の勃発に伴う日本軍の侵攻により  1945年まで日本の統治下となる
 1945年:日本敗戦:再びイギリスの統治下に置かれる
 1962年:ブルネイ動乱(英語版)
 1984年:イギリスより独立する
 
ボルネオ島に、ポツンとある南洋の独立王国

 


発展に尽くした日本人とは
ブルネイ県知事・木村強
 
 その日本人がブルネイにやってきたのは、今から74年前のこと。 1939年、第二次世界大戦が勃発。
 
 日本は1941年から東南アジアのアメリカ・イギリス・オランダが植民地とする島々から追放するため、イギリスが支配していたブルネイに侵攻。 兵力が少なかったイギリスはすぐに撤退し、日本軍が統治を行うことになります。
 
 そしてこの国を「日本国ブルネイ県」と制定、日本の統治下に置いたのです。 そのブルネイ県知事に任命されたのが…木村強(当時41歳)。 
 
宮城県出身の木村は、県庁で商工課長などの要職を歴任。 そして1942年、旧日本陸海軍が占領地の行政を行う司政官として戦地に向かう事へなります。 その最初の仕事がブルネイの県知事だったのです。
 
******************************************
 
 木村はブルネイに到着後、まず始めに当時の国王アハマドと面会。 「日本国ブルネイ県」となった後も、日本は国王の地位は変えず、その権威はそのまま守られていた。 そして木村は国王に対して、敬意を持って接することを忘れませんでした。 
 
木村は国王にブルネイに詳しい人物を1人付けてもらえるようにお願いしました。
 
 木村にとってブルネイは、まだ未知の国。 そのため、さまざまな知識があるブルネイ人の秘書が必要でした。 国王は木村の要求に応えるため、一人のブルネイ青年を呼び出しました。 オマル・アリ・サイフディン(後の国王)。 まだ26歳の青年でした...
 
元秘書のオマル・アリ・サイフディン3世 国王

2017年現在、国王はオマル氏の息子(ハサナル・ボルキア国王)が在位中。
 
 秘書となったブルネイ青年オマルも、日本軍、そして木村の目的が石油にあると思っていました。 しかし…木村が視察したいと言ったのは、なぜか一般的なブルネイ人が暮らす貧しい村でした。
 
 当時のブルネイの村は、まだほとんどがジャングルに覆われ、道路も通っていない状況でした。 ブルネイの国土の大半を占める熱帯雨林には、ゴムの木が豊かに自生していたものの、現地の人々が細々と採取しているだけでした。 
 
天然ゴムが豊かである事に注目した木村は、軍の資金でゴムを製造する工場を設立し、多くのブルネイ人を正当な賃金で雇用しました。
 
 無論、木村の中にも石油の確保という、日本政府の狙いを遂行する意識はありました。 しかしそれ以外にも、天然ゴムが豊かであることに注目した木村は、ゴム工場で得た収益を日本軍の利益とせず、水道、通信などのインフラ整備を次々に進めていきました。 軍の為ではなく、現地住民の生活を向上させるために。
 
 とはいえ、工場設立の費用などは軍の資金。 石油以外に資金を使うことは日本政府の意向に反するとして、左遷や投獄の可能性もあります。 それでも木村は信念を曲げませんでした。
 
 さらに…木村は大きな畑を作ることを指導しました。 自給自足の生活に慣れ、『自分と家族が食べていければ、それでいい』と考えていた人々に… お互いに協力し、大規模な農場で大量生産を行うことで、みんなで豊かになろう、そう呼びかけました。
 
 木村はできるだけ多くの村々を周りました。 ブルネイ人同士の繋がりを育むことで、ブルネイという国を豊かにすることが大切だと考えていたのだ。
 
 オマルはいつしか、ブルネイ人の生活改善を第一に考えてくれる木村に対し、最大限の信頼を寄せていったのです。 そして木村はしだいに、ブルネイの多くの人々に尊敬される存在となっていきました。
 
 さらに木村は、驚くべき行動に出ました。 木村はオマルにイバン族の居住区に連れて行ってくれるように頼みました。 ブルネイは、王家を含むマレー系の他に、様々な部族が暮らす多民族国家なのですが… 中でも、マレー人たちに最も敬遠されている部族がありました。 それがイバン族。
 
 イバン族には、昔から“首狩り”の風習があり、マレー人と殺し合いをしてきた歴史のある野蛮な部族として知られていました。 それでも、木村はブルネイをさらに発展させるには、国内で争っていてはいけないと考えイバン族の協力も仰ぎたいと考えていたのです。
 
 しかし…イバン族の居留地に向かっている途中のことでした。 イバン族に取り囲まれ、追い返されてしまったのです。 実は戦時中、日本軍の中にイバン族の土地へ侵略を試みた部隊がありましたが、イバン族は日本兵の首を斬りつけ侵略を阻止。 以来、日本人に対し強い嫌悪感を抱いていたのです。
 

 そのため、何度訪れてもすぐに追い出されました。 しかし、それでも…木村とオマルは、イバン族の元へ通い続けました。

 その一方で、木村は国王に掛け合い、ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴えました。 そして、イバン族の村でも自らインフラ整備を始めました。
 
 そんなある日のこと。 イバン族のみんなが、自分たちにも作業を手伝わせて欲しいと申し出てきたのです! 木村の想いは、いつの間にかイバン族にも伝わっていました。 あれほど、日本人を嫌っていたイバン族が木村に信頼を寄せるようになっていきました!



 
 こうしてイバン族とも絆を育んでいった木村。 さらに…木村が言うならと、イバン族とブルネイ王家が歩み寄ったため、マレー人と他の部族との関係も改善。 小さな国土で多民族がいがみあっていたブルネイは、一つにまとまっていきました。

みんなでお餅を食べるシーン


 しかし、そんな時間は長くは続きませんでした。 木村がブルネイ県知事に就任しておよそ1年。 軍の命令により、マレーシアのサンダカンへの異動が決まり、ブルネイを離れることとなったのです。


 
 滞在期間わずか1年足らず。 しかしブルネイにとっては、それ以前の生活が一変し、国の基礎が出来上がった奇跡の1年となったのです!
 
 
別れの日、木村は唯一残した手記に、こう綴りました。

ブルネイには僅か一年位しかいなかったが、現地人の幹部が男泣きに泣いているのを見て、私も泣いた。

そしていよいよ出発の日に、約1時間半ほど、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。

私は過去1年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった』

******************************************

さらにお話は続きます。続きは以下の動画で御覧になる方が楽と思います。どうぞよろしくお願いします

 

今も尊敬されている日本人:木村木村強さんの着任から帰国、さらに22年後、ブルネイに招かれた時の様子や気持ちを書いた記事がありますので紹介します。


私は、戦争に負けることは聊(いささ)かも想像したことはないが、仮に万が一期待に反するような結果になっても、日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、

品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたいという信念で、異民族の統治に当たったのであった。
 

 あれから70年が過ぎました。 今現在、ブルネイの人々は日本の事をどう見ているのだろう?「日本人は素晴らしい。一生懸命で多くの事を学ぶ事ができるよ」「日本は発展していてとても好きです」
 
 今より未来…今から70年以上前に木村が願ったとおり、日本とブルネイは深い信頼関係で結ばれている。 現在も両国は良好な関係が続いており、ブルネイ天然ガスは輸出総量の約9割が日本へ向けたものです。
 
 また東日本大震災の際には、オマル国王の息子である現ブルネイ国王から100万ドルの義援金が送られた他、民間からもおよそ2400万円の義援金や 寄せ書き等のメッセージが送られました。
 
 木村が、今なおブルネイで尊敬される理由。 それは、彼が日本人の心である“和”の精神を伝えたから。(動画内で現地の人が言っています。)  日本とブルネイの海を越えた友情は、今後も受け継がれていくでしょう…末永く。