人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

マレーシア・・・マレー戦線

 
 
マレーシア

マレーが解放されるまで
 
 
山下陸軍大将の指揮のもと、1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始しました。

マレー作戦コタバル上陸
 

真珠湾攻撃に先立つこと約1時間20分前。

いわゆる太平洋戦争はこのマレー作戦によって開始されました。

日本軍の動き  
 
1941年(昭和16年
12月8日
 英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦の開始)

コタバルに上陸し美支隊マレー半島の海岸を進んだ

 
12月10日     マレー沖海戦

 マレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機イギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘です。イギリス側はプリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の2隻。

マレー沖海戦要図
 
 イギリスの最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を発見した日本海軍機は度重なる攻撃を仕掛けた末、撃沈します。イギリス首相も嘆かせるほどのあえない最期でした。日本の完全勝利に終わったこの戦いは、真珠湾攻撃とともに当時、大艦巨砲主義が主流を占めていた世界の軍部を驚かせ、来るべき航空戦時代の切っ掛けをつくったと言われます。

英東洋艦隊「レパルス(上)」と「プリンス・オブ・ウェールズ(下)」の最後
12月15日   ペナン島占領
12月16日 マレー半島 アロールスター占領
12月16日  北ボルネオ(コタキナバル)に上陸イギリス領
12月21日  タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)1942年(昭和17年
1月11日   マレー半島クアラルンプール占領
 
工兵隊が架橋を建設する様子

2月1日   シンガポールの石油施設を砲撃
2月7日  シンガポール北東のウビン島に牽制上陸
2月8日  シンガポール北西海岸より上陸
シンガポールの戦い)
2月15日   シンガポールの英豪軍が降伏
 
シンガポールの英豪軍が降伏

エスかノーか

 

 昭和16年(1941年)12月8日から始まったマレー攻略戦は鯉兵団が主力となります。鯉兵団は大日本帝国陸軍の広島を衛戍(えいじゅ)とする師団です。「日本一の機甲兵団」とも言われ、マレーでは自転車を連ねて走り銀輪部隊とも言われました。このほか18師団、近衛師団が参加しています。日本軍の進撃を見たマレー人にはマレーに伝わる伝説を思い起こさせました。


銀輪部隊

 

 ジョヨボヨの神話

 「マレー人を苦しめる白い悪魔を、東から来た黄色い軍神が打ち破り、ジャゴンの花が咲くまでの短い期間だけこの地にとどまり、やがて東へ引き揚げるが、そのあとに平和なマレー人の国が建設される」

 マレー人は東方から神兵、もしくは兄がやってきたと歓喜し、日本軍の戦車が来るとバナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて込んで歓声をあげました。

タイ・マラヤの国境から約30キロの地点、ジットラに「ジットラ・ライン」がありました。英軍は日本軍の進撃を3ヶ月は食い止めると豪語していました。

日本軍は豪雨を突いて佐伯中佐率いる捜索第五連隊(軽戦車部隊)が敵陣へ突入します。敵陣中なので孤軍奮闘し、翌日になっても友軍がやってこないので、戦車隊は全員死を覚悟しました。

その晩、河村旅団が夜襲を敢行し、敵が退却。戦車隊は生き残りました。ジットラインはわずか2日の攻撃で突破しました。



 そして日本軍はアロールスター(マレーシアのケダ州)を占領。ペナン島を無血占領します。英軍は橋を落としてたくみに退却し、時間稼ぎをしていましたが、スリムの戦闘では島田戦車隊が破天荒な戦車隊による夜襲作戦を敢行し、わずか12両の戦車で敵中深く突破し、救援に駆けつける敵部隊を次々撃破し、さらに敵中進入し、敵陣後方の野営地から砲兵部隊、司令部まで撃破しました。


敵衛生隊にまで遭遇しています。このため軍司令部では島田戦車隊は全滅したと勘違いしたほどでした。英軍の陸軍史には「戦史上、最大の敗北」と記載されているそうです。



 さらに日本軍は休む間もなくクアラルンプールを占領し、ゲマスで勇猛なオーストラリア部隊と戦い突破し、1月31日にはマレー半島南端のジョホールバルへ突入しました。わずか55日の快進撃です。そしてシンガポール攻略戦となり2月15日に英軍が降伏します。


*******************************************


 後にシンガポールの首相となったリー・クワンユー戦後、自衛隊の陸将となった元F機関長、藤原岩市氏に次のように訊ねています。


「英、豪、印連合軍は非常に多く、兵器は近代的であったのに、地下足袋を履いて、宮田自転車に乗った貧弱な日本兵に完敗した。日本軍の銃と砲は骨董品のような明治38年式なのに、なぜ勝てたのか」

 
 藤原岩市氏はこう答えました。

「絶対多数のマレー人と、インド人(下参照①)と、タイ人(日泰同盟)が全部我々の味方でした。反対に民衆を敵に回したイギリス軍と華僑の連合軍は少数派だから完敗したのです」


① 日本軍はマレー半島を南下、シンガポールを陥落する間に、降服したイギリス軍に属していたインド兵を「インド国民軍」に編成して、インド侵攻の場合の兵力としようとしました。このときインド兵の多くが日本軍に協力し、イギリスからの独立戦争に向かおうとしたのです。
 


 
ウィキペディア表記では

インド国民軍(INA)の結成
日本の参謀本部は1941年7月ごろから対英戦争の勃発を想定して、マレー半島における英印軍兵士工作に着手した。責任者として指名された藤原岩市は、タイのバンコクで極秘にインド独立運動を展開していたインド独立連盟のプリタム・シンに接触するとともに、F機関を結成した。


そして太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発とともに、F機関とンド独立連盟もマレー作戦に参加し、英印軍兵士に対する工作活動を展開。マレー半島西岸の街アロールスターで投降してきたモーハン・シン大尉に、投降してきたインド人兵の統括をゆだね、モーハン・シンはいったんは答えを保留したものの、日本軍とインド人兵を対等に扱うことなどを条件にこれを承諾。


藤原岩市と握手を交わすモーハン・シン大尉(1942年)

こうして日本軍は、マレーやシンガポールで英軍と戦闘中に捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って「インド国民軍」を編制した

この軍隊は「白人支配からアジアを解放するための組織」とされた。


このインド国民軍は、この後、「チャンドラ・ボース」が総指揮をとり「インパール作戦」まで繋げて行きます。後に、日本がインドから「独立の切っ掛けをつくってくれた。」と言われる所以はここにあるのです・・・親日である理由は歴史が証明してくれているのです。