人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

タイ・・・山田長政はなぜ海を渡った



タイ(Thailand)

 
山 田 長 政
武略に長けており、ソンタム国王からの信任が篤かった山田長政
 
 沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていましたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡ったと言われています。

 山田長政は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)のアユタヤ日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で通称は仁左衛門と言いました。

 後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となります。
 

 武道に長けており、アユタヤー王朝のソンタム国王からの信任が篤かったとされます。

 その山田長政がアユタヤ国王の王女と結婚したという説がありますが、はっきりした証拠はありません。
 

 

タイの日本人町
 17世紀にはタイには、日本人の活動も及んできて日本町が作られ、山田長政などが傭兵として活躍しました。


 日本人町は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されていました。

なぜ海を渡ってまで

 日本の戦国時代には、主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになりました。

この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い(1600年)、大坂の役(1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣から成る。)などの後になります。

 当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生み出したのです。

日本の内乱で主君を失った浪人が、職を求めて海外に渡ったのです。


山田長政の最後

 長政はソンタム王の遺言に従い、政治にまで参画しましたが左遷に会い、1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて暗殺されました。

 さらに長政の死と同じ年に、「日本人は反乱の可能性がある」として、アユタヤ日本人町は焼き打ちされました。


 しかしその後、1632年には焼き討ちにより海外に逃れていた日本人400人程度が再び集まり、日本人町が再興されました。

 軍事的・政治的な地位を失ったものの日本人は以前の貿易により培われた集積力を生かし、仲買商として働いたり、タイ南部で盛んに産出されたスズの取引などを行うようになりました。

 その後、18世紀初頭まで日本人町は存続したと考えられていますが、徐々にタイ族に同化し自然消滅したと言われています。

 現在は記念公園となっており、日本人町の跡の碑などが建っています。日本の旅行会社が、この公園をパッケージツアーのコースに採用するため日本人の案内人も常駐しており、資料館には僅かながら江戸時代に日本から送られた親書などが展示されているようです。

 
 
タイ国政府観光庁
まずはタイ観光庁の案内から見るのが安心ですね。
 


タイの治安は大丈夫?