人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

④ ベトナムの歴史・・・残留日本兵の功績

アジア解放に立ち上がった残留元日本兵
 
 第一次大戦後に組織された国際連盟に加入した日本は「人種差別撤廃」を訴えた唯一の国でした。大東亜戦争はアジアの植民地からの独立を促した。と言われますが、独立戦争に参加して戦い、戦死した日本兵もたくさんいたのです。
 
 これは中学高校の歴史では全く教えられていない事実でしょう。社会人でも知らない人が多いと思われます。つまり戦後生まれの人達はほとんど自虐史観に苛まれているのです。
 
 
 もう一つ、日本ではあまり知られていない日越交流秘話があります。1945年8月15日、大東亜戦争終結しても、なお約800人の日本軍将兵ベトナムに残りその多くがベトナム独立のために、インドシナ支配を再び支配するフランス軍と戦ったのです。
明号作戦:両手を挙げて日本軍に降伏するハノイフランス軍
 
 1945年9月2日、ベトナム民主共和国の独立を宣言したホー・チ・ミンは、日本軍の兵器の譲渡を求め、残留日本軍将兵らにベトナム人指揮官の養成を願い出ました。
 
 
 このようにしてベトナム中部クアンガイに、グエン・ソン将軍を校長とする指揮官養成のための「クアンガイ陸軍中学」が設立されました。この学校は、教官と助教官が全員日本陸軍の将校と下士官というベトナム初の「士官学校」でありました。
 
 
 クアンガイ陸軍中学は、ベトナム全土から選抜されてやってきた青年が、実戦経験豊富な日本人教官から日本陸軍の戦術をはじめ指揮統制要領を学んだのでした。
クァンガイ陸軍士官学校の日本人教官
 
 フランス軍は目を疑ったに違いない。少し前まで非力だったベトナム人が、見違えるように強くなり、しかも見事な近代戦を挑んできたのだのですから・・・
 
 現代ベトナム軍の基礎は旧日本陸軍によって作られたのです。そして元日本兵が最前線でベトナム人を率いて戦いました。第1次インドシナ戦争ではフランス軍との戦闘で多くの日本人が戦死しています。中には、その後のベトナム戦争アメリカ軍と戦った者もいたと見られています。
 
ベトナム近現代史
 ところで、ベトナムが日本への憧れを抱いたのは日露戦争にさかのぼります。日露戦争での日本の勝利が植民地支配に苦しむアジアの人々を奮い立たせ、独立の機運を生んだのでした。
 
 当時のベトナム独立運動家だったファン・ボイ・チャウは、ベトナムの人々に「日本に行き、そして学べ」と呼びかけ、ベトナム人の日本留学運動である「東遊(ドンズー)運動」が始まりました。
ファン・ボイ・チャウ
 そして多くのベトナム人が日本に渡り、同時にハノイには「トンキン義塾」がつくられ、近代化教育が行われました。
 
 
 ところがインドシナを統治するフランスの圧力によって、日本政府は在日ベトナム人を帰国させることになりました。それでもベトナム人の日本への憧れは消えることなく、いまでもホーチミン市にはドンズー通り、ファン・ボイ・チャウ通りなどがあり、日本との強い絆の記憶が語り継がれているのです。
 
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 ベトナムの日本への親近感は、アジアで両国(ベトナムと日本)だけが強大なアメリカを相手に戦い、そして現在は、東シナ海南シナ海で軍拡著しい中国とそれぞれ対峙するなど、安全保障上の共通点に因るところも大きいのです。
 
 13世紀に遡れば、日本は2度の「元寇」を経験しましたが神風によって国難を切り抜けました。
 
 日本への2度目の弘安の役(1281年)の後、元は1285年と1288年にベトナムに来寇しました。ところが英雄チャン・フン・ダオ陳興道)が元軍を見事に撃ち破ったのです。(ベトナム軍はいつの時代も強いですね)
 
 ダオはベトナムの危機を救いましたが、同時にの日本に対する3度目の来寇を断念させたのでした。日本は、ベトナムに救われたともいえるのです。
 
 
 日本とベトナムの関係は冷戦期に一時、冷え込んだこともありましたが、互いに共鳴し合う歴史を歩んできました。その両国が安全保障分野での緊密化を図ろうとしています。日越両国の防衛協力は、緊張高まる地域の平和と安定に大きく貢献することになるでしょう。今こそ日越の連帯強化が急務でありましょう。
奇縁ともいえる歴史的な関係です。
右は、ベトナムのフン・クアン・タイン国防相

中谷元防衛相は2015年11月4日、ベトナムのフン・クアン・タイン国防相ハノイで会談し、南シナ海の要衝、カムラン湾の海軍基地に海上自衛隊の艦船を寄港させることで合意しました。ベトナム軍との初の海上訓練実施も確認しました。南沙諸島で人工島を造成する中国を牽制する狙いがあるのです。
 
 
これでまた日越のつながりが強化されたのです。