人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

② 親日ミャンマー・・・教えられていない歴史


などと並び、ミャンマー親日的である理由の1つに、スーチーさんの父、アウン・サン将軍の存在が大きいのです。
 
 
当時、白人はアフリカや東南アジアを何百年もの間、植民地として支配していました。そこで日本は白人たちを追い出し東南アジアの国々を開放させようと大東亜(東アジア)共栄圏という構想を練っていました。これは第二次大戦中のお話です。
 
 
インパール作戦という言葉を聞いた事があると思いますが、それまでに至る事の発端がミャンマーと日本の関係の始まりとなるのです。

第二次大戦中の
アウン・サン将軍 と 鈴木大佐
 
鈴木敬司大佐という日本の特殊部隊の南機関の機関長から南京で接触し、近衛文麿首相からイギリスの植民地の解放からの資金提供を1941年2月に受け、アウンサン含むわずか30人からなる「30人の志士」と南京に渡り、日本軍の特殊訓練所で戦争の戦い方の訓練を受けました。
 


1942年に「ビルマ独立軍」という組織で、ミャンマーの地域を次々と日本軍の支援を受けながら制圧、1942年6月にヤンゴンも制圧しました。7月にはイギリス軍の追い出しに成功し1943年3月に、アウンサンが来日した時には、28歳の若きリーダーと大歓迎を受け、旭日章を受章しています。


しかし1943年から1945年にアウンサン将軍は、インパール作戦(1944年3月から7月)でのずさんな作戦、計画と失敗を目の当たりにし、日本の敗北が濃厚になってきたのに焦りを感じました。


そこでアウンサンはイギリスに1年以内のビルマの独立を約束させ結局、日本から離れたのでした。
アウンサンは日本を裏切ったと言う人もいますがミャンマーが独立するためには仕方がなかったと判断したのでしょう。

 
 
 でもアウンサンは日本への恩を忘れていませんでした。
 
 
その証拠に日本が敗戦し、元南機関長鈴木敬司が、戦後ビルマに連行されBC級戦犯として訴追されそうになった時、アウンサンは猛反対し、鈴木大佐は釈放されたのでした。
 
 
アウン・サン将軍は表舞台に出て10年もたたない間に仲間と会議中に暗殺され亡くなってしまいましたが、彼の日本に対しての憧れ、信頼は、今のミャンマーの人々の親日の考え方の根底をなしているのです。
 ところでアウン・サン将軍の娘、スーチーさんは昔、京都大学1985年10月1日から1986年3月31日までの間、東南アジア研究所の外国人研究員として来日していました。そして平成28年11月3日に名誉博士称号を授与されています。