人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

③ 台湾と日本・・・すっごく親日的

①では現在の台湾と日本の関係を序章として書きました。

②では日本の敗戦から現在までの歴史を書きました。

③ではもう少し詳しく16世紀くらいから書いていきます。

 台湾には数千年前からマレー・ポリネシア系の20数部族に及ぶ多様な原住民が住みそれぞれ独自の言語、習慣による社会を形成していました。
日本では高砂族といわれている人たちです。20数部族もあって言語がばらばらでは統治が大変ですから日本はまず日本語教育から始めました。台湾のお年寄りで日本語が通じる人が多いのはこういう理由があるのです。


 


 さら日本統治の上で困難を極めたのは部族の中には首狩り族がいて日本人も大勢犠牲になりました。首狩り(出草)と言えばタイヤル族を思い起させるほどタイヤル族によるものが多かったといいます。

 日本が始めて首狩りの犠牲となった事件で台湾出兵の切っ掛けともなった宮古島島民遭難事件(1871年)=牡丹社事件や 霧社事件(1930年)などがあります。しかし日本統治時代末期になると首狩りの習慣はほとんど見られなくなりました。



宮古島島民遭難事件
 
 
 

 さて話を戻しまして、16世紀ごろになると倭寇の根拠地となります。倭寇は日本人の海賊というイメージが強いのですが、前期は日本人。後期は中国人が主でした。



 その後の台湾ではオランダが植民地として納めて行きます。1624年にはオランダによるゼーランディア城という要塞が造られています。



 ところが、オランダは漢人によって追い出されてしまいます。1644年に明が滅亡。すると明の復活を目論む鄭成功たちが台湾にやってきてオランダと戦い1662年にはオランダを追い出してしまうんです。せっかくオランダを追い出した鄭成功たちでしたが、中国大陸では清の時代がやってきます。彼らによって1683年、鄭成功らは滅ぼされその後台湾は清によって治められます。



 ところで鄭成功について。鄭成功の父は、鄭芝竜という福建出身の海賊集団の首領で東シナ海から南シナ海一帯にかけて活動していました。鄭成功の父が日本の平戸に滞在中に田川家の女性のと結ばれ1624年に生まれたのが鄭成功(幼名:福松)なのです。今で言うハーフです。日本とつながりのある人だったんですね。



 さて、この時点では、台湾は清、つまり中国の領土ってことですね。ですけどその後、台湾は日本の植民地になるんです。これは知っている人が多いでしょう。



 日清戦争。これによって清は台湾を手放して日本の植民地になるんですね。日本は1895年に台湾総督府を設け、その後、太平洋戦争で敗戦するまで台湾は日本の植民地となるんです。



 ところで清は下関条約の時点で台湾のことを国家統治の及ばない「化外の地」と言う意識があったので痛くも痒くもありませんでした。確かに伝染病は頻繁に起こるし痩せこけてた土地ばかりでこれと言った特産物も資源もありませんでした。そういう島を日本は手を加えイノベーションを起こしたのでした。
 
 
 

 日本の統治期間は(1895年 - 1945年) の50年でしたがその間、投資経営型の統治を行ってきました。教育、治安、保健医療、治水、電力、産業育成などインフラ整備に力を入れ、さらに現地人を日本人とほぼ同等に扱ったため今日、親日家が多いのはこういう理由があるのです。




 
 因みに、投資経営型以外に統治の種類としては、
略奪型=スペイン、搾取型=イギリス、フランス、オランダ
があります。




つづく