人生はドラマチック

一瞬の花火がその人の人生を左右する。花火が多いほど人生はドラマチックになる。結果の良し悪しは別として・・

独学で座禅をマスターする方法

今日は座禅について、少々、蘊蓄したく存じます。

 
 
思想的背景

 臨済宗は、疑問を抱きつつ坐禅することにより悟りに至る看話禅の立場を採る。これに対し、曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場に拠る。北宋時代に臨済宗曹洞宗は理論的に激しく対立し、この対照は現代の日本にまで継続している。

引用 Wikipedia

 

 

 

 曹洞宗では、まず (姿勢を整える) 次に(呼吸を整える)  すると (自然に心も整える) と説いています。

 


 いつの時代も「世知辛い世の中だ」「生きにくい世の中だ」とよく言われます。人は不安だらけで迷いながら生き続けなければならない性を持っているんでしょうか?




 今日は座禅についてです。静かに動かず私語を慎んで何かを悟ろうとする場面はよくTVで見かけますね。少しでも動けば偉い人にバシっと板のような棒のようなの物で一発喰らいます。




雑念が脳内をよぎったり、眠くなった状態にはバシっとね。やられます。




 座禅によって何を得ようとしているのか。「主観と客観、自己と世界、善と悪などといった相対的なものが現われる以前の、主観と客観が分かれる前、自己と他者のようなになる以前の存在そのものへ立ち還る」ことを目指しているとよく説かれています。何かを悟ろうとしているのではないようです。



これを「 無の境地 」と言うのかもしれません。



 常日頃私たちが「自己」として大切にしているものは、実はそれが迷い の根元であり、それは実体のない幻影なのですが、人間は長い間生命をつないできた過程で自らが大切と思うがためにそのことに気づかないのです。座禅はそれを行ずることによってその根底にあるものを明確に認識して、「人間の心」というものの本体を自覚させて行くらしいのです。



今や世界の多くの人々は、「真実の己れ」に目覚めることなく、自分の信仰や世界観、利害の対立の中で正しい人間の道を見失い、或いは底なしの闘争や、あるいは細かい専門領域の袋小路に入り込み、あるいは自堕落な享楽にふけって、真の理想と希望のない生活のなかで、結局はそのような現状にあえいでいるのが実体なのではないでしょうか。


 



禅は、神秘的教義や信仰を立てず、霊魂や死後の世界を語らず 、真実の本心をよび覚ます道を直接示してくれているのではないでしょうか。



今日は偉そうなこと言ってしまいました。